身の丈
最近は、理不尽な殺人事件が多い。秋葉原の事件にしてもしかり、私はあの事件の数日前に事件現場を歩いていた。事件後、テレビに映し出された被害者の写真を見て、あのお店の前で声をかけてきた女性だと知った。私も同じ年頃の娘がいるから他人事とは思えない。「誰でもよかった」という犯人の言い分を聞いて、到底許せるものではないと大きな憤りを覚えた。
「人に迷惑を掛けないことが社会に生きる第一歩」と頭に染みついている私にとって、理解の域を超えている。世の中が嫌なら、出家すればいいのにと言ったら若者に時代錯誤と笑われてしまった。ただ、一連の事件に関しての識者のコメントは全く戴けない。格差社会やワーキングプアと結びつけて、またぞろ「世の中が悪い」と犯人を擁護し、ミスリードを始めたからだ。
折しも小林多喜二の「蟹工船」がブームだとか。それと事件を結びつけて論評する識者がいる。人権が無視され、人が家畜同然に扱われた時代と今の時代の何処に共通点を見いだせというのか。プロレタリア文学は、暗黒時代の間違いを時代背景とともに学ぶ良い教材ではあるが、今の時代を当時と同じ格差社会と断じるのは、歴史と物事の道理を知らぬ者の戯言である。
私は、彼の全集から小樽商大の卒業論文まで読んでいる。その手の本も殆ど読破した。農民運動、労働争議、人身売買等、扱う材題は多岐に渡るが、最後は国家権力に対する抵抗である。無理もなかろう、戦前の日本は人権意識が希薄であったし、個人よりも国益が優先した。戦時体制の強化とともに、政府はマルキスト達を取り締まり、彼も築地署の特高の拷問で果てた。
話は大分逸れたが、事件の原因を戦前の蟹工船の世界に引きずり込んで、犯行を世の中の所為にするのは以ての外だ。時代錯誤も著しい。私はマルクスの資本論の誤りに学生時代に気がついた。だから学生運動に参加することもなく、国家試験に没頭出来た。爾来、私はプロレタリア文学を読んでいない。読書後のあの重苦しさと不快感を思いだす度に、ぞっとするからだ。
結局、私の人生の師であり、私を支えてくれたのは山本周五郎全集であった。大衆や下級武士の生き様を描いた作品群にどれほど力を貰ったことか。貧しくとも希望を捨てずに、一所懸命生きている人間像が清々しく共感を覚えた。20代の出会から今日まで、辛い時、苦しい時、そして落ち込んだ時も主人公の真っ直ぐな生き方に、何度となく勇気づけてもらった。
小難しい哲学書も読むには読んだが、私の血となり肉となっているのは、やはり山本周五郎先生の「身の丈にあった生き方」「与えられた環境の中で精一杯生きる」「自己犠牲」という人生哲学ではないかと思う。有名な「赤ひげ」はともかく、市井の人が主人公の武士道物語、日本婦道記に収録された短編にも珠玉の作品が多い。本当の生き方を教えて貰ったなあと思う。
ところで、落語の長屋の八っあん、熊さんは、今日的には日雇労働者。昔の職人は仕事の保証がなかった。でも、人の所為になんかしなかった。身の丈にあった生き方で人生を楽しんでいた。事件を起こした輩に言いたい。今まで精一杯努力してきたの、人を巻き添えにして卑怯じゃあないの、仲間がいないのは自分の所為じゃないの、結局、ただ我が儘なだけじゃないか。
山本周五郎全集を読んで己を見つめ直してほしい。決して人様に刃を向けてはいけない。万物の霊長、人間のすることではないから。


