運用の話は何故恥ずかしいか?
投資や運用に関してある素朴な疑問を持っています。余りにも根本的な疑問なので申し上げるのも恥ずかしいくらいですが、それは「何故一般の人が投資に取り組まないのか?」というものです。
別の言い方をすると、「投資のことを他の人と話すのは恥ずかしい」という声をよく聞くのですが、「何故運用の話が恥ずかしいのか?」という疑問なのです。
お金を運用することは違法行為ではありませんし、反社会的な行為でもありません。確かに市場の動きによって損をすることはありますが、「恥ずかしい」というのはそぐわない気がします。あるいは自分が損をするかもしれない、ということが恥ずかしいのでしょうか?
先日セミナーに出掛けたときに、この疑問を考えていて、「これは『ハレ』と『ケ』で説明できるのではないか?」と気がつきました。
ウィキペディアによると、
―「ハレ」と「ケ」とは柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。(中略)ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケはふだんの生活である「日常」を表している。ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどをケとは画然と区別した―
つまり、非日常と日常の違いです。
これを「運用」に当てはめると「預金」は「日常」で「株式投資」などの「投資」は「非日常」なのではないでしょうか?
つまり「投資をする」のは日常生活とはかけ離れた特別なことなので、日常生活でそれを普通に語ることは恥ずかしい…
もし「ハレとケ」が日本人に独特の感覚だとすれば、日本人がほかの国の人たちと違って「投資」に特別な感情を持つことは理解できるような気がします。そして日本人が投資に関して「恥ずかしい」「照れくさい」感覚を持たざるを得ないとすると、日本人にとっては「貯蓄から投資へ」というのはとても難しいことになると思います。そして「恥ずかしい」と思ってぐずぐずしている間に「投資」に積極的な世界の他の国々にどんどん引き離されていってしまう…そうなってしまうかもしれません。困ったことだ。
ただ、そうならないひとつの可能性があります。
それは、インフレの可能性が出てきたことです。
仮にインフレが進行して預金では自分の生活を守れないと多くの人たちが実感するようになったとしたら…その時は「ハレ」も「ケ」もなくなって、「投資」は「社会や生活の一部である」とようやく納得するようになるのではないでしょうか?


