アダム・スミス「道徳感情論」に見る「見えざる手」
アダム・スミスといえば、「国富論」、またその中で言及した「見えざる手」であるが、彼はもう一冊「道徳感情論」という書物を著している。こちらを読んで初めて、この「見えざる手」が何かが正しく認識できるようだ。そしてそれは、現在の日本社会にも非常に示唆に富むものといえる。
なお、この稿は、今年1月から2月にかけて日経新聞「やさしい経済学-名著と現代」で、堂目卓生大阪大学教授が掲載した連載論文―アダム・スミス「国富論」、「道徳感情論」の一部紹介および感想コメントというべきものであることをあらかじめお断りしておく。
「道徳感情論」でスミスによれば、人は他人から同感を求めたいために、それを得やすい歓喜をイメージする富を求める。ここに私たちの野心の起源があり、日常生活で必要なもので満たされてもなお富を求め続けるのは、人からより多くの同感を得たいという野心のためだという。ところが、富を築き上げ、豪華な食事も、美しい衣装も、立派な邸宅も実際に手を入れてみると、大した満足感をもたらさない。かえって管理する手間が増え、他人からは、同感ではなく、嫉妬や非難を受けてしまうこともある。
一方貧しい人々は、他人から同感を得られず、世の中から顧みられないと感じ、人生の悲哀を味わう。しかしながら中流・上流の人々は、より多くの富を獲得しようと資本を蓄積することにより、安い賃金で済む貧しい人々に対する雇用が増大し、彼らは最低限の賃金を確保し、他人から無視されるという苦痛から解放され、一定の幸福感を味わえるようになる。
先ほどのとおり、より大きな財産を築いた人々の幸福は、以前に比べほとんど増加しない。こうして貧者と富者の間で、幸福がより平等に分配される。経済成長の大きな目的は、必要最低限の富すら持たない人々に雇用を得させ、平静な気持ち=幸せを得させることだという。そして冒頭の「見えざる手」は、「道徳感情論」では、貧困と失意に苦しむ人々に自然がさしのべる「救いの手」なのである。
ほかにも紹介したい箇所はたくさんあるが、この辺りでとめておく。
日本では格差社会が問題になっているが、大変示唆に富む思想と感じる。巨万の富を築いても大して満足感が得られず、「華麗なる一族」にみるような状況に陥る。本来の資産運用も、幸せを得るために必要な富を確保するというスタンスが大事なのだろう。


